- 職業
- 元会社員(山交バス株式会社(旧:山形交通))
- 生まれ・育ち
- 西根地区
- 現住所
- 中央地区
- 生年月日
- 1935年2月20日
- 長井で好きな場所
- 歴史を感じる古風なところ(丸大扇屋、やませ蔵)
- 長井のソウルフード
- 漬物
人がすることは全部やってみたい!若さのヒミツはその好奇心!?
今年米寿のお祝いをされたというのに、全くおじいちゃん感がない。びっくりするほど体も若く頭も鮮明ですが、その秘訣は?
健康の秘訣なんてのはない。ただただ、やることが途絶えないんだよ。好きなことや趣味が絶えないからかな。
昨年は、パークゴルフに110回以上行ったね。お酒も大好きで、休肝日なんて設けたことがない。パークゴルフと晩酌が日々の楽しみだな。
「若月さんは、知らない物事がない」と聞いていましたが…?
そうだね、なんでもやるし、なんでもしてみたいと思っちゃう。人のすることは自分にできないはずがない。そう思ってなんでもやってきたんだ。
登山、ゴルフ、ソフトボール、狩猟、野菜作り、山菜、きのこ、縄仕事、競馬、歌舞伎鑑賞、謡曲、料理、旅行…伊佐沢の念仏踊りだってできるよ(笑)。
麻雀は70年以上やってるかな。家族全員に教えたよ。お正月は、みんなで麻雀するのが定番の過ごし方。孫が強いんだよ。負けるんだよな(笑)。
暮らしのことから趣味の世界まで。本当になんでもですね!
基本は奥さんがご飯を出してくれるけど、鍋物は私だけ。漬け物も自分でやるし、畑なんかはやり始めたら毎日毎日毎日だからね。野菜の顔を見て何を欲しがっているか観察するんだよ。だから、やることが尽きない。
なんでも覚えるしね。少し寝れないな~なんていう夜は、歴代の天皇陛下の名前とかぶつぶつ言いながら覚えてる。初代から30代までは全部書ける。
なぜ、そんなことができるんですか?
きっと幼少期時代が影響してるんじゃない? 「学」がないことがその後もずっとコンプレックスだったんだよね、ずっと。
そのくせ、誰にも負けたくない。とても負けず嫌い。だから、人がすることはなんでもできる、なんでもやりたいと思うんだろうね。
なるほど。生い立ちを教えてくださいますか?
西根地区の草岡生まれ。8人兄弟の真ん中。
戦争、終戦の最中に幼少から中学時代を過ごしたね。終戦がちょうど国民学校(現:小学校)5年生の時だった。
その頃は、ただただ「生きる」ことに必死。ご飯に大根を混ぜて食べられれば良いほう。ご飯にさつまいもの葉っぱを混ぜて餓えをしのぎ、栄養をとっていた。
楽しむなんてことを考える余裕がない。楽しみといえば、喧嘩くらいだったな。
とにかく勉強よりも家庭のこと。炭焼きで生計を立てていて、薪を50キロ担いで西山を登り降りの繰り返し。
勉強も真面目にできないまま中学を卒業。1年は家の手伝いをして、その後、稼ぐために東京へ。
稼ぐには手に職をつけるしかないと、建設業のトラックの運転手になったんだよ。
当時の東京は終戦後間もない時。
あちらこちらが瓦礫の山で、上野駅の地下道は浮浪児だらけ。本当に惨めな世界だった。
そこから8年は仕事に従事したねー。その間、会社の仲間で箱根旅行に行ったことがあって、そこでみたバスの運転手さんがたまらなくかっこいいと思った。
そこから次第にトラックではなくバスの運転手になりたいと思い始めるけど、当時、東京でバスの運転手になるには所帯もちでないとダメだった。
そうこうしているうち、体を壊したことがきっかけで長井へUターン。24歳の春に、晴れて山形交通でバスの運転手になったんだ。
当時、給料は東京時代の半分になったけど、念願のバスの運転手になれて、とにかく楽しかった。
その後、ずっとバスの運転手さんですか?
バスの運転手のあと、労働組合の専従とか本社の完全指導課とかに従事したけれども、定年まで山形交通だった。
高度経済成長に差しかかり、観光業もうなぎ登り。同期は60人いて、長井営業所の社員も150名。会社全体では3500人も社員がいたよ。
当時は修学旅行も盛ん。入社が昭和34年で、昭和39年に東京オリンピックの開催が決まっていて、東京へ修学旅行へ行く学校がかなり増えてきた。皇居、東京タワー、横浜、鎌倉、江ノ島、浅草など、バスで観光案内するんだよね。
それで「あいつは東京を知っている」ということでね。入社して間もないにも関わらず、東京担当になってね。1カ月の間に東京往復を5回した時もあったね。
4泊5日も学生さん達と一緒にいて、夜の野球観戦などにも同行したりしていたから、今でも言われますよ、「あの時の運転手さんですね!」って。70歳くらいのおじさん達に(笑)。
あの頃は相当運転したねー。北は北海道から南は大阪まで。新幹線でなく、バスで往復するのが主流の時代だったからね。
運転がお好きなんですね?
運転は好きだね。昭和27年に免許を取ってからもう71年。運転歴71年だよ。
もう、俺より古い運転手は長井市内にいないんじゃないかな。先日も免許証更新の際に、認知機能検査(75歳以上のドライバーに義務づけされている検査)をしてきて、全く問題なし。免許証は棺桶に入れてほしいね。
奥さまとは、いつご結婚されたのですか?
昭和35年。入社してすぐ見合い婚だよ。奥さんは看護師。昔は、2週間連続で夜勤があったりして、僕はあちこち行っているし、もうすれ違いだらけ。
子どもが2人いるけど、奥さんには家のことでかなり苦労をかけたと思うね。今は孫5人、ひ孫4人にも恵まれて、感謝してるよ。
退職後は、どんな暮らしぶりだったのですか?
60歳で定年退職した時は「80歳まで生きてみたい。20年間は好きなことをしたい」と思ったよ。
それで現役時代から始めた登山にのめり込んだ。あと狩猟ね。猟友会会長は4年務めたかな。
あとは藁仕事。十日町にしめ縄保存会というのがあって、そこで習ったの。やってみたら得意だってことが分かって、あちこちで作ったよ。縄文祭りのボランティアとしても呼ばれたりして。
それから昭和50年代に地域活動の一環でソフトボール愛好会が立ち上がったの。これものめり込んで、審判員の資格をとって、長井でもソフトボール協会を設立したんだ。
その流れで、平成4年に山形県で開催された「紅花国体」では、ソフトボールの審判員を務めた。これは人生において一番の思い出だね!
長井は文化度の高いまち、そのことに気づこう!
観光ボランティアガイド「ながい黒獅子の里案内人」の立ち上げもされたのですね?
そう、今年で引退したけどね。最初はゼロから始めたから、人を募って資料をかき集めて、講師を頼んで勉強会して…、試行錯誤だったよ。
当時は、観光ボランティアガイドが全国でブーム。山形県の政策で長井も立ち上げることになって。それで長井市から「立ち上げてくれないか?」と声がかかった。立ち上げから10年、会長を務めたよ。
黒獅子の里という名前はどのように決まったのですか?
最初、あやめ、つつじ、桜だの花の名前がたくさん挙がった。だけど当時は、黒獅子祭りが有名になりつつある時期だったから「これからメジャーなお祭りにしていきたい」と期待の気持ちを込めてネーミングしたんだ。
以前、若月さんとご一緒したとき、誰よりも場の空気を読んでくださって。外国人の表情も汲みながら、話されていたのが印象的でした。
相手の様子を汲みながら話をするのは、ボランティアガイドの基本だね。水陸両用バスの乗車中も出発から終了時まで一度も話を切らすことはないよ。
カンペは見ない。だって話は毎回変えるから。お客さんの様子、顔をよく見る。何を求めているか分かるから。
ガイドの一方方向ではダメなんだ。満足して帰ってもらわなくちゃ。
ボランティアガイドの思い出といえば?
千葉県の銚子市から来られた二人の女性を、久保の桜にご案内した時のこと。久保の桜がまだ二分咲きだったんだよね。「わざわざこれだけを観に来たのに」と、その場で苦情を言われて。
どうにかしたいと思って15分くらい話をしたの。久保の桜にまつわることや歴史やさまざまなこと。
そしたらね、数日後にあちらから、銚子名物のぬれせんべいが届いたのよ、感動したって。
自分の知識が役に立って嬉しかったねー。普段からたくさんのことにアンテナを張ってあれこれ覚えておくこと、大事だよね。本当に。
そしてボランティアは、みんなで連携してやっていくことが大事だと思っている。
市の役割、ボランティアガイドとしての役割。それぞれが責任を持って、それぞれの役割を果たしながら、長井を全国に、もとい世界に伝えて行く必要があるよね。
定年退職後はそれなりに好きなことをしたけど、地域からのお願いごともたくさんあった。会計を5年、地区長を10年、さらに連合会長を4年務めたんだ。地域の長というのは言ってみれば苦情係だからさ、誰も務めないわけよ。
そんな経歴やボランティアガイドの立ち上げなども含めて、平成26年に市政功労賞をいただきました。
素晴らしいです!最後に、長井に思うことを聞かせてください。
東京の友達に、長井は文化度の高い都市だと言われたの。その時にハッとしたよ。
食にしても人間性にしても地域性にしても。長井には文化ってものがなんでもある。周りを見渡したら本当にそうだと思った。
長井に住んでいる人は気づいていないことが多いけど、よく歴史を知り、周りと関わり、長井を俯瞰してみるといい。絶対にそうだから。
長井は生活していても面白いところだよ、とても。だから私は長井で暮らしていることに誇りを持って生きていたいね。
幸せだよ、毎日。負けず嫌いだから、長井で一番長生きしたいね。
■観光ボランティアガイド「ながい黒獅子の里案内人」■
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