- 職業
- 編集・ライター
- 生まれ・育ち
- 長井市中央地区
- 現住所
- 東京都
- 生年月日
- 1963年5月3日
- 長井で好きな場所
- 新しい市役所の屋上
- 長井のソウルフード
- つけ揚げ(お盆、法事の時に出てくるアレ)
自分を育んでくれた長井から離れて40数年。今の想いは…
なんといっても、おしゃれな蓮見さん! どんなお仕事をされているのですか?
フリーランスで編集やライターをしています。もうかれこれ38年。今でも締切に追われる日々です(笑)。全然おしゃれなんかではなく、地味な服を着ていると元気が出ないだけかな。
初めてお会いした時から、本当に長井で生まれ育ったの?と思わせるオーラを感じていました!どんな子ども時代をお過ごしでしたか?
本町の真ん中で生まれました。今でこそチビですが、生まれたときは4000gのビッグサイズ。幼少の頃は身体も大きく「正義の味方」的な女の子だったと思います。小学校に上がるとすっかり平均的なサイズになりましたけど。
当時、長井小学校は全校生徒1500人という大きな学校。おませな小学生時代で、高学年になると「これが青春!」というような思い出がたくさんあります。
中学までは「授業さえ聞いていれば勉強しなくても大丈夫」と、運動ばかり。部活は新体操部で県で2位・5位になり、陸上部やスキー部にも借り出され…。そして何も疑問を持たず、長井高校に進みました。
そんな蓮見さんが東京へ出ることになった理由はなんですか?
両親は近場の国公立大学・短大へ進むことを望んでいましたが、高3で進路、将来を探る中、全然行きたい学部がない。
私は何をやりたいんだろう? と思っているところに、友達から「雑誌の編集という仕事があるよ」というのを聞いて。
学校で作文や読書感想文などを書くとよく入賞していたので、「もしかして私、文章を書くのが好きなんだったら、出版に関わる仕事もしてみたいかも」と突然ひらめきまして(笑)。そこから東京にある専門学校へ行くことになったんです。
華やかな世界にいても、ド田舎育ちスピリットは忘れない!
専門学校卒業から編集者・ライターさんひと筋なんですか??
そうです。専門学校の時からバイトでも雑誌のライターのアシスタントをしたり、編集プロダクションで簡単な記事を書いたりはしていました。
いよいよ就職という時、主に女性誌をやっている編集プロダクションに受かりました。基本は編集者として構成から撮影の手配、校正までなんでもやる、原稿もライターには頼まず自分で書くというスタイル。
それまではビジュアルが重要視されるファッションやヘアメイク、ウェディング誌など、普通の女性誌にはあまり興味がなかったので、感覚を養うまでにかなり苦労しました。
世の中バブル期。華やかな世界にいきなり飛び込んでしまった感じで。遠い世界だと思っていたファッションや化粧品会社の取材など、新人の頃はとても荷が重かったです。
20代後半には芸能人の取材や撮影も多くなり、だんだん感覚が麻痺していったところはあったかもしれません。でも、そこはド田舎生まれ(笑)。当時はインターネットもない時代ですから、情報も少なく、地方と都市部の格差が相当あり…。
どんなページを担当するにしても、いつも「東京の人はこれで喜ぶだろうけど、田舎に住んでる人にはあんまり役に立たないだろうなぁ」という困惑が頭の片隅にありました。
いつしか「北海道から沖縄まで、全国に住んでる人の役に立つページをつくる」が、自分の基本姿勢になっていったと思います。
就職して14年間はめちゃめちゃ働いていました。3日3晩家にも帰らず働いて…なんて日常茶飯事。36歳で独立し、同時に結婚もしましたが、結婚後もほとんど変わらなかったです(笑)。
旦那さまはどんな方なのですか?
24歳のとき、取材で訪れたタヒチで出会った人です。風貌も中身も超変わり者(笑)。一緒にいたら10人中10人が振り返る。
知り合ってすぐに一緒に住み始め、36歳で籍は入れたものの、何も状況は変わらず、現在に至ります。
14歳年上ということもあってまるで私の保護者みたい(笑)。今も朝晩、ご飯を作ってくれています。
ふるさと長井会が教えてくれた、故郷を守りたい気持ち
そんな中、ふるさと長井会はどのように知ったのですか?
2016年の発足時です。設立記念の総会の案内が届いたからだったと思います。一応、抜け目なく長井高校の卒業名簿にももれなく載せてもらってましたし。
神楽坂の「もー吉」(長井出身の方がやっていた居酒屋)に行っていたことから、そのつながりもあったのかもしれません。
ふるさと長井会に入ろうと思ったのは?
えーと、創立記念の総会に行ったら自動的に会員になっていた気がします(笑)。そこで「青年部会」に誘われまして。何度か部会の会合に参加していたら、あれよというまに幹事になってました(笑)。
思えば、18歳で長井を離れてからは、法事でもない限りそれほど長井に帰っていなかった。気持ち的にも全く長井には向かっていなかったんです。
きっかけは父ですね。2008年に他界したのですが、父ががんで入院してからの3カ月は、忙しい合間を縫っては病院に通っていました。仕事で徹夜してそのまま新幹線に乗り、赤湯で下りるはずが、気づいたら乗り越していて「さくらんぼ東根〜♪」みたいな(笑)。
痛みで苦しみながらも「まだ長井のためにやることがあるんだ〜」と言う父を見る度、何もすることができない無念さに、悲しみを通り越して悔しかった。
父は長年、市役所職員。定年退職してからも「地域のためになることを」が口癖で、長井のために尽力していた人。リバーヒル長井の創設など、県から表彰されるようなボランティア活動をしていました。
その娘である自分は何もやっていない…。父が亡くなってから、ずっとずっとそんな自責が頭にあったのだと思います。
今考えれば、ふるさと長井会の創設の案内を目にした時、「長井を応援する」というシンプルな言葉が響いた。頭の片隅で気にかかっていた思いにグッと刺さったんだと思います。
入会して、どんなふうに長井と関わってこられたのですか?
青年部会ではコロナ禍になる前までは月に一度の集まりをしていて、何か東京でできることはサポートしようと計画を立てたり。首都圏に住む長井出身の方や長井が好きな方とたくさん知り合い、親睦を深めてきました。
青年部会としての活動は、長井のイベントのお手伝いなどをやっています。毎年、池上本門寺に長井から雪を運んできての雪灯籠祭り、MEGAドンキの山形フェアで、長井特産品をアピールするお手伝いなど…。
今年度からは、総務・広報部会も兼任することになりまして。
5月には有楽町の駅前で行われた長井市のけん玉イベントのお手伝いをしたり…。今は、ふるさと長井会のホームページの開設にあたり、主要メンバーとしてお手伝いさせていただいています。
今年はコロナ明けということで3年ぶりにいろいろと再開。総会・懇親会にも参加できました!
個人的には、人に何かギフトを贈るときには、長井の特産品を選ぶようになったことも意識の変化です。つや姫や雪若丸などのお米、あけがらし、お菓子類、けん玉…、いろいろです。もちろん自分でも、長井のものをお取り寄せするのが好きなんですけれど。
これからどう長井とつなががりを持っていきたいですか?
今後もメイドイン長井のものをまわりに届けたいし、まだ隠れているお土産品も発掘してみたい。そういった地道なことでも、長井と都会の小さな架け橋になれたらいいなと思います。
先日は、東京の友人たちとともに2泊3日の「ハスミのふるさと長井ツアー」を実施したんです。ほとんど浦島太郎な私ですから、それはもう自分自身が朝から晩まで新鮮なものばかり。たくさんの発見をしていました。
生まれ育ち、高校まで過ごした場所なのに「私ってば、な〜んにも見てなかったんだ」とつくづくあきれたほど。
長井小学校の旧校舎。ナニあれは!超ロマンチックな洋館に見えるのだけど? とか(笑)。 最上川の土手なんか、高校の頃は毎日走っていたけど今じゃ全く違う景色に見える。空も雲も川も山々も、そこら辺の木々さえも、なんだか清々しい光を放っていました。
そして、長井には縁もゆかりもない、あるのは「ハスミと知り合った」という奇遇だけの友人たち。いちいち嬉々として長井のあれこれを見てくれていることが何より嬉しかったです。
「楽しかった」「また行きたい」「別の季節の長井も見たい」と言ってもらえて、早くも第2弾を計画することになりました。
東京に戻ってからも、みんな「山形県」はもちろん「長井市」というワードに、やけに敏感に反応するようになっちゃったりして。私の存在がサブリミナル効果になっているかもしれません(笑)。
ふるさと長井会に入っていなければ、こんな旅行は思いつかなかったでしょうし、自分がここまで長井に関わろうとは思っていなかった。もう一度長井をよく見てみようともしていなかったし、長井の良さを見つけようともしていなかったと思います。
大変心強いです! 最後に、ふるさと長井会とは蓮見さんにとって何でしょうか?
長く離れていたふるさと長井に、強く気持ちを向けさせてくれたもの。自分の生まれ育った原点を思い出すもの。そして初心を呼び覚まさせてくれるもの。
これからも、この会でのつながりや活動を大切にしていきたいと思っています。