「長井の在宅医療を充実させたい」という野望を抱き、熱血!訪問看護師カイヤが行く!

鈴木 開哉さん ■ふるさと長井会会員
訪問看護師として多忙な日々を送る鈴木 開哉(カイヤ)さん。独立して、訪問看護ステーションを開設するという具体的な計画とともに、ゆくゆくは生まれ故郷の長井でも、在宅医療を充実させたいという野望があります。「きかず」の野球少年が、真摯な夢を抱くようになるまでに経てきた転機の数々。まるでドラマのよう!
取材・文/蓮見則子
職業
看護師
生まれ・育ち
長井市中央地区
現住所
神奈川県
生年月日
1993年10月12日
長井で好きな場所
実家、最上川の土手
長井のソウルフード
「すえひろ食堂」の白みそラーメン

プロ野球選手に憧れた少年が、看護師になった理由とは?

まず「ふるさと長井会」に入会したきっかけを教えてください。

コロナ禍で帰省を自粛してる人に対して、長井市から名産品を送ってもらえるキャンペーンがありましたよね? あれに申し込んだことがきっかけでした。

その後、長井で畜産農家をしている同級生(矢久保さん)から「東京での長井市イベントに、うちの米沢牛を出すから食べに行ってきてよー」と連絡があり、それに行って長井会の方々とお会いしたんです。

FaceBookなどでつながって、ふるさと長井会をちゃんと認識するようになりました。

20代30代は仕事も忙しく、なかなか田舎に目が向かない人が多そうですが…。

確かに自分も休みは少ないし、休日は家族と過ごす時間にしたいなと思います。でも、僕は長井が大好きなので、人よりも帰っているほうかもしれません。

ずっと訪問看護ステーション勤務なのですか?

それが全然違うんですよ。訪問看護は2年近く前からです。それまでは救命救急、災害医療の現場にいました。

相模原の北里大学病院に就職して、救命救急・災害医療センターのEICU(救急集中医療室)に6年間いたんです。

最前線の医療現場から訪問看護に移るなんて、珍しいですよね?

そうなんです。救急と在宅医療は真逆の世界。周囲からも「一般病棟など、もっと別の現場も経験してから辞めるのでも遅くないんじゃない? 大学病院という安定的な職場を辞めるなんて、もったいないよ」とも言われました。

でも、僕は早く在宅医療に移りたかった。自分の熱量があるうちに早く移ろう、と。

↑1年中、半袖ユニフォームでも平気です!さすが、スポーツマン。

そう思わせるきっかけがあったのですね? あ、その前に、看護師になるまでの経緯を教えてください。幼い頃からの夢でしたか?

まさか! 幼稚園の頃から悪ガキ、長井で言う「きかず」でした。正義感の強いガキ大将だったみたいです。

小学校では野球、空手、水泳、習字などの習い事ばかり。空手も強かったけれど、野球が好きで中学(長井南中学校)では野球を選びました。

南校の野球部は強くて、自分でも「野球ひと筋!」のつもりでしたが、2年で生徒会副会長、3年では生徒会長を頼まれてしまって。

勉強は全然できなかったですが、テキトーな感じの明るさと人を巻き込む力みたいなものがあったんだと思います。

野球部の部長と生徒会長の両立はとても大変でしたけど、いい経験になりました。

そして野球の推薦で私立高校に行くと決めていたのに、親の希望でわりと渋々、長井高校に入学。

「長井高校でも甲子園を目指すぞ! 将来はプロになる!」と意気込んだわりには、いざ入学したら3年生との力の差がありすぎた。中学で強かった自分なんか全然ダメじゃん、と。

自主的に朝練も夜練もして頑張った結果、チームでは上に行けなかったけど、個人では県の選抜チーム選手に選ばれるくらいにはなりました。

でも、肘を怪我したりしたこともあり、高2の時には「これはプロ野球選手になるなんて無理だな」と気づいたんです。

「それなら、体を動かして人のためにもなる仕事に就きたい、体育の先生とか消防士とか…」なんて考えていました。

でも、勉強が出来ないし、教師も無理だと気がつき…。

↑スポーツとお祭りが大好きだった少年時代。もちろん黒獅子も大好きでした。

残るは消防士ですね(笑)

そうなんですが、高2の冬に東日本大震災が起きたんですよ!

テレビで医療スタッフが人々のために動き回っている姿を見て、僕は医者にはなれないけど、ああいう人助けができる仕事に就きたいと思うようになったんです。

そして「災害医療看護師」「救急医療看護師」という職業を知り、これだ!!と思いました。

もうそこからは「災害医療を学ぶ」という確固とした目的ができた。そして、姉が新潟に居たことと、実家にすぐ帰れる距離ということで新潟の看護大学に進んだんです。

就職は、災害医療や救命救急医療でレベルの高いところに行きたかった。つまりそれは必然的に東京方面の大学病院だったんです。

先生に勧められたのが北里大学病院です。災害拠点病院でヘリポートもあるのが相模原の本院だったので、そこに決めて無事就職。希望したICU(集中治療室)に配属されました。

戦場のような救命救急の現場でわかった患者さんの想い

なんだか、順風満帆な人生じゃないですか!

えー、全然順調じゃない〜。勉強できなくて国公立大学に行けなかったのがいちばんの挫折だし。

就職してからもめちゃくちゃ大変だったんですよ。右も左もわからないのに、人の生死を左右する現場にいて、先生も先輩もめちゃ怖いし、毎日がドキドキ。

「オレ、行けんじゃね」なんて思っていた時分、つくづくアホだったと思いました。

1年目は救急車の音や人工呼吸器のアラームが、夢なのか幻聴かという感じで、いつも聞こえてる状態。ストレスで死ぬかと思ったほど。

生きててくれてよかったです〜♫

あはは、毎年毎年揉まれに揉まれて…。そして4年目の最後の頃、2020年にあのコロナです!

僕は1月に結婚したばかりだったんですが、同じ1月ですよ、新型コロナが流行し始めたのは。

職場はパニックでした。何が正解かもわからないのにどんどん人が運ばれてくる。

壮絶な現場で毎日が戦場。「何これ?」「何だこれ?夢?」みたいな。

みるみる重症化していく人。誰にも会えないまま亡くなる人。亡くなっても家族は側にも行けない。家にも戻らず、直接斎場に運ばれる人もいる。

まさに最前線で戦っていたんですね。コロナ禍、長かったでしょうね。

本当にいろいろ考えさせられました。誰だって最後は家に帰りたいはず。

家族に見守られることなく亡くなっていく患者の思いを想像したら、無念しかありませんでした。

そうでなくてもとにかく救急はいつも満床なんです。心筋梗塞や脳梗塞などで運ばれてきても、誰かを外に出さないとICUに入れられない。

しかも、治療して良くなっても、また同じように運ばれてくる人もいる。それって在宅医療が何もできていないからでしょう。

在宅での治療がちゃんと行われない限り、救急現場の状況は改善されないと思い始めました。

そんなふうに悶々としているとき、僕の祖母、大好きなばあちゃんが胃がんになったんです。

96歳では、末期がんでも手術の適用にならない。病院で看取るか、在宅で看取るか…。

まだコロナ禍だから、入院すれば家族は面会できない。救急でコロナ患者の対応をしている自分なんか絶対に病院へは入れない。

小さい頃から大好きだった祖母が、病院でたった一人で亡くなっていく? そんな選択をしたら一生後悔すると思いました。

家族会議の末、在宅で看取ることに。母は仕事を辞めて看護をする、僕は遠方だけど医療的な部分でサポートする。

そして休みのたびに帰省して、祖母と一緒に過ごすようにしたんです。

↑小さい頃から大好きだったおばあちゃん。長年、長井小学校で先生をしていました。
↑やっぱり落ち着くのは実家です。昔も今も仲良しな両親と。

愛する祖母の死が教えてくれたもの、学んだこと

コロナ禍での救命救急、そこに帰省と看病だなんて、よく頑張りましたね〜。

帰るたびに車椅子の祖母と散歩したりした時間は幸せでした。そのうち衰弱しきって寝たきりになった頃、今度は母が疲れ果てていたんです。

もっと訪問看護を利用すればいい。末期がんの場合、制度的には訪問看護を毎日お願いすることができることになってるんだから、と言いました。僕は、てっきりそれができるものだと思っていたので。

ところが、長井では訪問看護ステーションが少なく、どの事業所も毎日の訪問なんか難しいと言われたんです。

「は?」です。何言ってんの? 何のための訪問看護なの?

制度上はそうなっていても、全く違う現実。当時、在宅医療のことなどまったく知らなかった僕は怒りさえ覚えました。

同時に「これは全国各地で起こっていることだ、どうにかしなければ!」と思うようになったんです。

つながりました。おばあちゃんのことがあって、訪問看護に移ったということ!

はい、引き金はばあちゃんです。

ばあちゃんは昔から「生きていられるのは人様のおかげ。感謝の心を忘れずに」と言っていました。亡くなる寸前まで「感謝」という言葉を口にしていて。

僕にはそれが「人様のために働きなさい。これから増える在宅看護を充実させなさいよ」というメッセージに思えたんです。

そのまま大学病院にいても在宅医療には関われない。じゃ、辞めるしかない、と。そこから、今の訪問看護ステーションに転職しました。

そして、訪問看護師としてまもなく2年になるんですね。

今は休日もあまり関係なく、患者さん宅をまわる生活ですが、僕たち看護師を必要としてくれている患者さんやご家族のために、少しでも役に立ちたいという思いはますます強くなりました。

コロナ禍の直前に結婚されたとおっしゃいましたよね?

ええ、寸前でした。そういえば、結婚式の前撮りは長井で撮影したんですよ。長井らしいところで撮りたいなーと。

妻は僕と結婚しなければ、長井という土地には一生立ち寄ることがなかっただろうと言ってました。人生はわからないもんですね、もうすっかり気に入ってくれています。

↑お馴染み、古代の丘の土偶広場にて。
↑畜産農家(矢久保さん)の牛舎で、米沢牛さんと。
↑長井小学校第一校舎。ピカピカの廊下でわかりますね。
↑長井の自然がいっぱい♡ 元気な二人にお似合いです。
↑古代の丘の池の前。すっかりモデル気分〜♫
↑フラワー長井線もマストでしたね。いい味出してる!

転職して子どももでき、守るべき家庭がある。将来のことはしっかり考えたいんです。

最初は、ここで3年キャリアを積んだら早く独立したいと思っていました。

でも、本部からあと2年はマネージャー業務をやってほしいという要請があり、これからはマネージメントや経営に必要なことをしっかり学んでいきます。

そして、まずはこの土地で訪問看護ステーションを立ち上げる。ゆくゆくは長井にも自分の訪問看護ステーションを立ち上げたい。

田舎では、看護師というのは「病院にいる人」と思われているじゃないですか。でも、そうじゃない。

これからは高齢化が進み、入院したくてもできなくなります。できても、すぐに施設や在宅に帰されることが多くなるでしょう。

そういうとき、在宅看護で頼ってほしいのが僕ら訪問看護師なんです。まず、そのことを長井の人にも伝えなくちゃならない。

誰もやれないのなら、やらないなら、自分がやるしかない!

素晴らしいです。すごく頼もしい! ぜひ実現させてほしいです。

長井のような地域は患者さん宅も離れているので、首都圏とは状況も違う。儲からないから誰もやろうとしない。

でも、僕は起業することが目的じゃない。これからの社会の課題に向きあっていきたい。僕と同じような思いをする人を減らしたいだけ。出た収益は地域のために還元したいんです。

長井では訪問看護ステーションとデイサービスと、老人ホームのように入所もできる施設、そしてお医者さんも看護師もいる…、それらを全部セットにした総合的な施設をつくれたらいいなと思う。

実現のためにやるべきことはたくさんある。今は、自分にできることを毎日こなすのみです!

期待しています。お仕事がお忙しいと思いますが、「ふるさと長井会」ではどんなことができそうですか?

僕にできることはSNSで長井のことを発信したり、若い世代の長井出身者を「ふるさと長井会」に引っ張ってくることかな。

青年部会に入れていただいていますが、来年度は総務・広報部会のお手伝いもすることになるかもしれません。

休みが少ないのでできることはあまりないかもしれないけれど、長井を思う時間が増えるのはいいこと。

もちろん、長井には可能な限りひんぱんに帰省したい。そして「すえひろ食堂」の白みそラーメンを食べに行かなきゃ。それから「川のみなと長井」に行って、みんなに「くるみゆべし」を買って帰らなきゃ!

↑家族3人で長井へ。神奈川生まれ神奈川育ち、神奈川で働く奥さまには、長井の何もかもが新鮮。